ゲドがクイーンを連れて自室に戻ったとき、そこには既にジョーカーの姿はなく、燭台の炎が頼りなく揺れているだけだった。
「ちょっとゲド、一体どういうつもりだい」
ずっと掴まれていた腕がようやく解放され、クイーンはゲドを睨みつけた。
しかしゲドはクイーンの機嫌の悪さに構う様子もなく、すっと寝台を指差して言ったのである。
「服を脱いでみろ、クイーン」
「…………はあ?」
思わず突拍子のない声を上げてしまったクイーンは、まじまじとゲドを見つめると、自らの台詞の意味に気付いて、ゲドは気まずそうな顔になり、軽く咳払いをして言い直した。
「……肩の傷を見せてみろ」
「……あ、そう」
クイーンは、がっかりしたような複雑な気分になりながら、衣服の上から傷口を軽く抑えて首を振った。
「いいよ、これぐらいで。大した傷じゃないし」
「お前のそれは、あてにならん」
ゲドは先に寝台の端に腰を下ろし、その隣を掌で軽く叩いて、クイーンに無言で腰掛けるよう促した。
だがクイーンはもう一度首を横に振り、不意に意地の悪い笑みを閃かせた。
「それとも、ゲドが脱がせてくれるっていうのなら、考えてもいいよ」
ゲドは眉をひそめ、溜め息をついた。そんなゲドの態度を見るうちに、クイーンは再び胸の内がざわめくのを感じ取っていたが、次に聞いたゲドの言葉には完全に意表を突かれ、目を見開いてしまった。
「そうするしかないのなら、な」
「……」
「あまり駄々をこねるな、クイーン」
不覚にも頬が赤らむのを感じてしまったクイーンは、黙ってゲドをねめつけたが、ゲドは物静かな表情でクイーンを見返すだけだった。
クイーンは負けを悟った。まだ目はゲドを睨んだままだったが、クイーンは大人しくゲドの右隣に腰を下ろし、上着のボタンに手を掛けた。
……上着を脱いだだけでは、肩に走る傷をゲドに見せることはできなかった。
クイーンは上着の下に着ていた黒い衣服も脱ぎ捨て、下着一枚になってゲドに向き合い、僅かな月光の差す薄暗い室内で、その傷を男に晒した。
服を脱いだくらいで動じるクイーンではないが、ゲドはさらに冷静に傷口の検分をしている。クイーンはむっつりと顔をしかめ、黙然と傷口に視線を注ぐゲドの顔を見つめていると、ゲドは顔を上げてクイーンの目を見返した。
「何故、こうなるまで放っておいた」
肩に付いた傷は皮膚が抉られているために、いまだに出血が完全には止まらず、仮の手当てとしてあてられていた布地をすっかり赤く染めていた。
ゲドの目にはクイーンへの気遣いと、これほどの負傷を放置していたことへの責めが含まれている。クイーンは気まずくなり、ふいと顔を横にそらした。
「……こんなの、放っておけばそのうち直るさ」
ゲドの手がそっと傷口の傍に添えられ、クイーンはその痛みにうめきそうになるのを辛うじて堪えた。
「無理をしなくていい」
ゲドはジョーカーに手渡された瓶の口を開け、中の練り薬を指ですくい取った。
「これだけ酷い傷に、この薬で効き目があるかは解らんが……」
細心の注意を払って、練り薬をつけたゲドの指が傷口を撫でるのを、クイーンは痛みを我慢しながら目で追った。
慣れない手つきながらも、ゆっくりと、丁寧に薬をつけるゲドの指を見つめるうち、クイーンはその感触が身体に伝わるごとに息苦しさを募らせていった。
ゲドは顔を俯け、黙々と傷口に薬を塗りつけている。二人の間の沈黙が耐え切れないほど大きくなる直前、ぽつりとゲドが呟いた。
「すまん、クイーン」
クイーンは唇を噛み締め、かぶりを振った。
「ゲドに謝られるようなことは何もないよ。あたしが勝手に怪我をしただけだ」
「俺のせいで、と思うのは、自惚れか」
「……そうだね」
ゲドは一瞬口をつぐんだが、再び言葉を継いだ。
「拍子抜けしているだけだ、クイーン」
「え?」
クイーンが思わずゲドの顔を見直すと、男はクイーンの肩から視線を外さず、慎重に言葉を選んでいた。
「無限に続くと思っていた生に、突然終わりの時を与えられた」
「……」
「俺が引き摺っていたものは、これほどあっけなく奪われるものなのかと思った」
クイーンは返す言葉をすぐに見つけられず、すぐ目の前にある男に触れようとして、密かに手を握り締めた。
クイーンには理解できないものを背負って生きてきた男なのだった。
彼を信頼し、彼も信頼した人々がこの世に誕生するより前から生き、多くの知己を先に失っている。
苦渋と惑いを抱えて生きるゲドにとって、自分などは、水面に吹きすぎる風のように、一時の痕跡を残して消え行くに過ぎないのかもしれないと思いそうになる。
どれほど触れたいと思っても、ゲドの心に入り込み、その重石を軽くすることはできないのかもしれなかった。
クイーンはきつく目を閉じ……次に目を開いた時に、ゲドの身体に腕を回して抱きしめていた。
「……クイーン」
ゲドが戸惑うのに構わず、クイーンはさらに腕に力を込めた。肩の傷が疼いたが、そんなことは構わなかった。
「ゲド、あたしには永遠なんて存在しない。生きるって事ひとつを取ったってそうさ。このまま年を取って、婆さんになって死ぬかもしれないし、明日には殺されて死ぬかもしれない。あたしにとって、常に今が全てだ」
「……」
「今のあたしは、ゲドの傍にいる」
クイーンは目を閉じ、呟いた。
「それが、全てさ」
暫くの間、ゲドは躊躇っていたようだったが、そっとクイーンの身体に自分も腕を廻し、夜気に晒された背中に掌をあてた。
クイーンは男の掌から伝わる温もりを素肌に感じ取り、さらにその鼓動を確かめたくて、ゲドの胸に顔を寄せた。
その生を支配してきた紋章などなくても、ゲドの胸の中には、確かな鼓動がある。
クイーンはほっと息をついた。……ずっと、そのことを知りたかったのだ。
ゲドの身体に回した腕に力を込めようとして、クイーンは肩の痛みに思わず声を漏らしてしまった。
「いいから、無理をするな」
すぐにクイーンの状態を悟ったゲドに、ゆっくりと腕を解かれ、クイーンは恨めしげに男を見つめた。
「言っておくけど、ゲド。あたしはよぼよぼの婆さんになってからあんたに抱かれる気はないからね。この女盛りを放っておくなんて、罪な男だよ、まったく」
朴念仁、というじれったさを込めてクイーンが小言を言うと、ゲドは怪訝そうな顔をした後、腑に落ちたように苦笑した。
「そんな肩をしていて、何を言っている。今晩あたり、酷く痛んでそれどころではなくなるぞ」
「そんなことより……」
言い返そうとしたクイーンの上半身を、ゲドは寝台のシーツで包み込んだ。
「今夜はここで寝ろ。悪くなるようなら、医者を呼ぶから」
クイーンはそれに応えず、ぷいと横を向いた。そのことにまったく構う様子もないゲドによって丁寧に寝台に寝かされたが、クイーンはむっつりと目を逸らしたままだった。
「クイーン」
寝台に横にされた後、宥めるようにゲドに呼びかけられ、クイーンがちらと目を向けた時、己の唇に柔らかい接吻が降ってきて、思わず目を見張った。
それはほんの一瞬で、ゲドはすぐに顔を離した後、表情の選択に困っているようだった。
「ゲド」
「……急ぐ必要はないだろう?お前は、俺の傍にいるんだから」
クイーンはゲドの顔を凝視していたが、その表情を緩めて微笑んだ。
「あまり長くは待たないよ」
「分かってる」
短く応えたゲドは、慌しく寝台から腰を上げた。
「水を貰ってくる。呑み過ぎで、喉が渇いているだろう」
「おや、よく分かったね」
「すぐに戻る」
部屋を横切って扉のほうへと向かったゲドの背に、クイーンは声を投げかけた。
「ゲド」
「……何だ」
「あんたの紋章のことだけど」
「……」
クイーンは軽く上体を起こし、肩越しに振り返ったゲドの顔を真っ直ぐ見つめた。
「取り返すよ」
「……」
「あんたのものを奪われて黙っているなんて、隊の名折れだからね。必ず、あたし達で取り返す。それから、紋章の始末をどうつけるかは、ゲド、あんたが決めとくれ」
心に決まっていることを、クイーンはゲドに告げた。
「あたし達は、あんたの傍にいるからさ」
ゲドは身体を半分捻ってクイーンを見やり、ただ一言、
「それも、分かってるさ」
そう言い残し、部屋を出て行った。
残されたクイーンは、寝台に横になってシーツを肩口まで引っ張り上げ、目を閉じた。
肩は相変わらず痛んでいたが、胸の重苦しさは消えていた。
どこかゲドの匂いがするシーツにくるまり、クイーンはやっと落ち着いた心持になって、ゲドの足音が再び部屋に戻ってくるのを聞きつけていたのだった。
・・・・・・THE END・・・・・・
「風紋」